| 拝読 浄土真宗のみ教え |
「浄土真宗の救いのよろこび」は、『領解文』のよき伝統とその精神を受け継いで、浄土真宗の救い、信心のよろ
こびを自ら口に述べる文章です。
ご家庭における日常の勤行や、寺院における法座のご縁など、さまざまな場面で繰り返し用いて、み教えに出逢
えたよろこびを深めていただければと存じます。
|
あみだにょらい ほんがん 阿弥陀如来の 本願は すく かならず救う まかせよと なもあみだぶつ な 南無阿弥陀仏の み名となり わたし たえず私に よびかけます ごえ き このよび声を 聞きひらき にょらい すく 如来の救いに まかすとき とわ き ともしび 永遠に消えない 灯火が わたし こころ 私の心に ともります にょらい だいひ い 如来の大悲に 生かされて ごおんほうしゃ 御恩報謝の よろこびに なもあみだぶつ とな 南無阿弥陀仏を 称えつつ まこと みち あゆ 真実の道を 歩みます よ えん つき この世の縁の 尽きるとき にょらい じょうど う 如来の浄土に 生まれては ちえ さとりの智慧を いただいて すく あらゆるいのちを 救います しゅうそしんらんしょうにん 宗祖親鸞聖人が にょらい まこと しめ 如来の真実を 示された じょうどしんしゅう おし 浄土真宗の み教えを とも ひろ 共によろこび 広めます |
「親鸞聖人のことば」は、『御文章』のよき伝統とその精神を受け継いで、浄土真宗のみ教えの要を親鸞聖人の
ことばをもとに、親しみやすく表現した文章です。
「浄土真宗の救いのよろこび」とともに、日常の勤行、法座のご縁などで、全十五章のうち一章ずつ拝読し、み教
えについての理解と味わいを深めていただければと存じます。
|
人生そのものの問い
日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が 大きな病気になった時、身近な方が亡くなった時、「人生その ものの問い」が起こる。 「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなる のか」。 この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた 経験も役には立たない。 目の前に人生の深い闇が口を開け、不安のなかでたじろぐ時 阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。 親鸞聖人は仰せになる。 みだ せいがん むみょうじょうや(お) 弥陀の誓願は無明長夜のおほきなるともしびなり 「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に 惑う人生の大いなる灯火となる。この灯火をたよりとする時、 「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、こ の問いに確かな答えが与えられる。 |
|
凡夫
親鸞聖人は仰せになる。 ぼんぶ (う)むみょうぼんのう み よく 凡夫といふは 無明煩悩われらが身にみちみちて 欲 (お) もおほく いかり はらだち そねみ ねたむこころ (お) りんじゅう いちねん おほくひまなくして 臨終の一念にいたるまで とど まらず きえで たえず 凡夫は、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないもの を言う。すべてのことを私中心にみて争いをおこし、欲望・怒 り・妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続ける。 仏法に出あうとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰の ことでもなく、この私のことと気づかされる。念仏申すひぐら しの中に、ありのままの私の姿を見せていただく。 |
|
真実の教え
あらゆる者を救いとる教えこそ真実の教え、究極の教えであ る。 親鸞聖人は仰せになる。 しんじつ きょう あらわ それ真実の教を顕さば だいむりょうじゅきょう すにはち『大無量寿経』これなり 『大無量寿経』には、あらゆる人を念仏一つで救おうと誓わ れた、阿弥陀如来の本願が説かれている。 釈尊は、その生涯をとおしてさまざまな教えを説き広められ た。 この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほ どに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられた。 あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、 釈尊がこの世に出られた目的だったからである。 |
|
限りなき光と寿の仏
阿弥陀如来がさとりを開く前、法蔵菩薩であったとき、すべ てのものを救うため、限りない光と寿をそなえた仏になろうと 誓われた。そして、果てしない修行の末に、その願いを成就し て、如来となられた。 阿弥陀とは無量をあらわす。阿弥陀如来は、その限りない光 をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂め取ってくださ る。その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを 救いとってくださる。 親鸞聖人は仰せになる。 じっぽうみじんせかい 十方微塵世界の ねんぶつ しゅじょう (わ) 念仏の衆生をみそなはし せっしゅ 摂取してすてざれば あみだ 阿弥陀となづけたてまつる たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨 てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。 その仏を、阿弥陀如来と申し上げるのである |
|
他力本願
親鸞聖人は仰せになる。 たりき (う)にょらい ほんがんりき 他力といふは如来の本願力なり 他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力 本願という。他力本願は、如来から私に向けられたはたらきで あって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。その願い の根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称え よ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏 のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられ る。このはたらきを他力といい、本願力というのである。 阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつ つ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただく のである。 |
|
如来のよび声
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀 仏の名号を完成された。名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具 えた、救いのはたらきものものである。 親鸞聖人はこの如来の名号を、 ほんがんしょうかん ちょくめい 本願招喚の勅命なり と仰せになる。 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀 如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号 による救いを選び取られた。如来のみ名は、遍く世界に響きわ たり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今 ここに至りとどいている。念仏の声を通して、如来の大悲のよ び声を聞かせていただく。 |
|
聞くことは信心なり
母に抱かれて笑う幼子は、母の慈しみを信じて疑うことがな い。慈愛に満ちた声を聞き、ただその胸に身をまかせ、大いな る安心のなかにある。 親鸞聖人は仰せになる。 もんごみょうごう (う) ほんがん みょうごう (え) 聞其名号といふは 本願の名号をきくとのたまへる (う) ほんがんりき うたが(う) なり きくといふは 本願をききて疑ふこころなきを もん (う) (う) しんじん (わ) み 聞といふなり またきくといふは 信心をあらはす御 のりなり 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との慈愛に 満ちた如来のよび声。このよび声をそのまま聞いて疑うことが ない、それを信心という。 自分の見方をより処とし、自分勝手な思いで、聞くのであれ ば、如来の慈愛のよび声をそのままに聞くことにはならない。 母の慈愛の思いが、幼子の安心となるように、如来のよび声 が、そのまま私たちの信心となる。 |
|
今ここでの救い
念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて救いにあ ずかるのではない。いま苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の 願いは、はたらきかけられている。 親鸞聖人は仰せになる。 しんじん さだ おうじょう さだ 信心の定まるとき往生また定まるなり 信心いただくそのときに、たしかな救いにあずかる。 如来は、悩み苦しんでいる私を、そのまま抱きとめて、決し て捨てることがない。本願のはたらきに出あうそのときに、煩 悩をかかえた私が、必ず仏になる身に定まる。 苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に出あうとき、もはや苦悩の ままではない。阿弥陀如来に抱かれて人生を歩み、さとりの世 界に導かれていくこととなる。 まさに今、ここに至りとどいている救い、これが浄土真宗の 救いである。 |
|
愚者のよろこび
阿弥陀如来は、「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけて おられる。そのよび声を通して、確かな救いのなかにあること をよろこぶとともに、ありのままの私の姿を、知らせていただく。 如来の光にてらされて見えてきた私の姿は、煩悩に満ちみち た迷いの凡夫であった。確かなものなど何一つ持ち得ない愚か な私であったと気づかされる。 親鸞聖人は法然聖人より、 ぐしゃ おうじょう 愚者になりて往生す との言葉をうけたまわり、感慨をもってお手紙の中に、記され た。 このような私だからこそ、救わずにはおれないと、如来は限 りない大悲を注いでおられる。この深き恵みをよろこばせてい ただくより他はない。 |
|
報恩の念仏
阿弥陀如来は、迷いのなかにある私たちを哀れみ悲しまれ、 そのままに救いとるとはたらかれている。浄土真宗の救いは、 この如来のはたらきを信じる心一つで定まり、念仏は救われた よろこびが声となってあらわれ出たものである。 親鸞聖人は仰せになる。 にょらい みな しょう ただよくつねに如来の号を称して だいひぐぜい おん ほう (え) 大非弘誓の恩を報ずべしといへり 如来は私たちを救いとって見返りを求めることがない。 はかりしれない如来のご恩は、決して返すことのできない大い なる恵みである。私たちは、ただそのご恩をよろこび、感謝の 思いを念仏の声にあらわすばかりである。これを報恩の念仏と いう。 救いのよろこびを恵まれた者は、報恩の思いから、つねに南 無阿弥陀仏と念仏申すべきである。 |
|
浄土への人生
阿弥陀如来は、煩悩によってさとりに至ることのできない凡 夫を哀れみ、あらゆる功徳を南無阿弥陀仏に込めて、私たちに ふり向けておられる。 親鸞聖人は仰せになる。 りんじゅういちねん ゆう だいはつねはん ちょうしょう 臨終一念の夕 大般涅槃を超証す いのち終えるとき、すみやかに浄土に生まれ、この上ないさ とりを開かせていただく。南無阿弥陀仏のはたらきに出あうも のは、むなしい迷いの生を二度とくり返すことはない。 如来のはたらきに出あう人生は、無常のいのちを、生きなが ら、かならずさとりの浄土に生まれゆく、むなしく終わらぬ人 生である。 |
|
自在の救い
念仏申し浄土へと先だっていかれた方々は、この世界にかえ り来て、私たちを念仏の教えに導いてくださっている。 親鸞聖人は仰せになる。 あんらくじょうど 安楽浄土にいたるひと ごじょくあくせ (え) 五濁悪世にかへりては しゃかむにぶつ 釈迦牟尼仏のごとくにて りやくしゅうじょう (わ) 利益衆生はきはもなし 浄土で仏となった方は、大いなる慈悲の心をおこして、迷い のなかで苦しむすべてのものを救いたいとはたらき続ける。さ まざまな縁を通して私たちを仏前に誘い、仏法聴聞を勧めてく ださっている。そのはたらきは、釈尊が巧みに人々を教化され たように、自在であり限りがない。 私たちは、多くの先人たちの導きによって、同じように浄土 への道をあゆませていただく。この道は、凡夫が浄土で仏とな り、自在の救いを行うことができる尊い道である。 |
|
光の浄土
浄土は、無量の光に満ちあふれた世界。如来の智慧が光とな って輝き、限りなくはたらき続けるさとりの世界である。 親鸞聖人は、阿弥陀如来の浄土をお示しになり、 むりょうこうみょうど 無量光明土なり と仰せになる。 如来の浄土へ生まれるならば、その光のはたらきにより、い かなる煩悩も、浄土と同じさとりの功徳へと変えられる。 それはあたかも、海へと流れ込む川の水が、すべて一味の海潮 となるような、広大なるはたらきである。 念仏の教えをいただく者は、限りない光の浄土へ生まれ、こ の上ないさとりの利益を恵まれるのである。 |
|
美しき西方浄土
経典には、阿弥陀如来の西方浄土が、清らかな蓮華が咲き、 麗しくかざられた、さとりの浄土として説かれている。 親鸞聖人は、安楽浄土のさまざまなありさまを、 ほうぞうがんりき 法蔵願力のなせるなり と仰せになる。 美しい浄土のありさまは、「迷いの凡夫を我が国に生まれさ せ、必ずさとりに導きたい」という阿弥陀如来の願いの力によ ってできあがっている。 凡夫は、さとりの世界に背を向け、迷いの世界にあり続けて いる。阿弥陀如来はそれを哀れみ、さとりの内容を凡夫に応じ て示される。美しくかざられた安楽の世界を、夕陽の沈む西方 に建立して、凡夫の到るべき世界を指し示し浄土に生まれさせ てさとりに導かんと願われるのである。 |
|
かならず再び会う
先立った方々を思えば、在りし日の面影を懐かしく思うとと もに、言いようのない寂しさを覚える。 親鸞聖人は、お弟子に宛てた手紙の中で仰せになる。 じょうど (い) そうろ(う) 浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし 再び会うことのできる世界がそこにある。今ここで、同じ信 心をいただき、ともに阿弥陀如来の救いにあずかっている。だ からこそ、かならず浄土に生まれて再び会える確かさを、今よ ろこぶことができる。 本願の教えに出あえた時、今ここで救われ、再び会うことの できる世界が恵まれる。 |
「折々のことば」は、「お正月」「お彼岸」「お盆」「報恩講」という、年中の仏縁となる行事に際し、その由来と
意味に触れつつ、み教えの味わいが深められるように示された文章です。
行事にあわせて頁を開き、味わいを深めていただければと存じます。
|
お正月 新たな年を迎える節目にあたり、いま一度みずからを見つめ なおし、確かな足どりで人生を歩みたいものである。 蓮如上人は年の始めに、勧修寺村の道徳に次のように仰せに なった。 どうとく 道徳はいくつになるぞ どうとくねんぶつもう 道徳念仏申さるべし 一つ年を重ねるにあたり、あらためて念仏を勧められたので ある。 一年また一年と、年を重ねることは、決してあたり前のこと ではない。私自身にも、やがてこの世の縁の尽きる時が来る。 阿弥陀如来は、はかなき私たちを哀れみ慈しんで、念仏せよ とはたらきかけておられる。 いま、私たちは、真実の教えに出あい、念仏申す身となって、 大いなる安心のなかに人生を歩んでいる。 新たな年の始まりを、念仏とともに迎えることは、何よりも、 大きなよろこびである。 |
|
お彼岸
彼岸とは、念仏の教えをいただいたものが、いのち終えて生 まれていくさとりの世界。仏となった懐かしい方々がおられる、 阿弥陀如来の西方浄土のことである。 善導大師はお示しになる。 にし きし うえ ひと よ (い) (わ) 西の岸の上に人ありて喚ばひていはく (じ)いっしんしょうねん きた なんぢ一心正念にしてただちに来れ (じ)まも われよくなんぢを護らん 阿弥陀如来は、「必ず救う、われにまかせよ」と、西の岸よ りよびかけておられる。如来のよび声は、南無阿弥陀仏の名号 となって、今この私に届いている。 如来に抱かれ、先に浄土へ生まれた方々に導かれて、彼岸へ と続くただ一つの道、念仏の道を歩むのである。 |
|
お盆
亡くなられた先人たちのご恩に対し、あらためて思いを寄せ るのがお盆である。 親鸞聖人は仰せになる。 がんど 願土にいたればすみやかに むじょうねはん しょう 無上涅槃を証してぞ (わ) だいひ すなはち大悲をおこすなり えこう これを回向となづけたり 浄土へと往生した人は、如来の願力によってすみやかにさと りをひらき、大いなる慈悲の心をおこす。迷いのこの世に還り 来たり、私たちを真実の道へ導こうと常にはたらかせるのであ る。 仏の国に往き生まれていった懐かしい人たち。仏のはたらき となって、いつも私とともにあり、私をみまもっていてくださ る。 このお盆を縁として、すでに仏となられた方々のご恩をよろ こび念仏申すばかりである。 |
|
報恩講
報恩講は、宗祖親鸞聖人の遺徳をたたえ、その恩を報ずる法 要である。 親鸞聖人三十三回忌に際し、報恩講と名付けられて以来、毎年 宗祖のご命日を縁として、脈々と営まれ続けている。 親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願の教えを明らかにされ、その 九十年のご生涯を、念仏の道ひとすじに歩まれた。 今、私たちが、浄土真宗の救いのよろこびにあえたことも、 聖人のご苦労のたまものである。 報恩講に際し、蓮如上人はお示しになられた。 ほんがんしんじつ たりきしんじん み こん すみやかに本願真実の他力信心をとりて わが身の今 ど ほうどおうじょう けつじょう しょうにんほうおん 度の報土往生を決定せしめんこそ まことに聖人報恩 しゃとく こんし (い) (う) 謝徳の懇志にあひかなふべけれ 他力の信心を得て浄土の往生を決定することこそ、親鸞聖人 のご恩に対するなによりの報謝となるのである。 |
|
「拝読 浄土真宗のみ教え」編集委員会〔本願寺出版社〕
|
|
|